FGSの会ブログ通信(Vol5)

~☆~ FGSの会 ブログ通信 Vol.5 ~★~
こんにちは!天心です。
FGS会報メルマガESS第十七号を発送しました!
ブログ読者向けに少しだけダイジェストを紹介します。
◎目次
1.FGSよもやまコラム
2.第十七号の特集(守護霊の系譜 -序章- )
3.不動明王 - 不動悟覚の伝 初級編 ご案内 -

FGSよもやまコラムは、FGSの会の限定のコラムになっています。
今回は、現在の時期がいかなるエネルギーが動くときなのか、なんてことをつらつらとお話しています。
第十七号の特集としては、「守護霊の系譜」シリーズ序章を開始!
守護霊というシステムの謎に迫ります。
不動明王様による不動悟覚の伝の初級編の募集を開始しました!
不動明王様より授けられし霊法の初級編です。
霊法を学べるのはFGSの会ならではの企画でもありますね!
そんな感じでFGS会報メルマガESSの第十七号をリリース済みです。
このメルマガは原則としてFGS基本メンバーの方のみが受け取れる会報メルマガになっています。
ブログ読者の方も、より突っ込んだ学びに参加したいとお考えの方は、FGSの会へのご参加をお待ちしております。
◎FGSの会については以下、URLリンクをご参照くださいませ!

【お知らせ】フレンドリー・ガーディアンズ・スピリットの会

FGSブログ通信からでした!
天心 拝
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取次鑑定のご感想 Part4

守護霊アドバイス、天命・過去世調査などの取次鑑定のフィードバック、ご感想などを日々いただいております。
なかなか、ご紹介できないものも多い中(プライバシーに関する部分も多いので)、いただいたものから、ご紹介可能なものを少し発表してみたいと思います。
今回は遠隔浄霊のフィードバックを集めてみました。
☆遠隔浄霊
~~~~~~~~~
天心さま
本日は本当にありがとうございました。
今日は昼から身体がとてもだるく、眠い状態でした。*1
何と表現していいかわかりませんが、目にも見えないところで、
霊的問題を解消していただき、天心さまのお取次ぎにただただ
驚き、出会えたことに感謝せずにはおれません。
主人についての思い、よく理解できます。
以前、自分は自信がない、両親からも愛されてなく、見方がいない、
と言っていたこともあります。
今後の方向性についても、お示しくださり、ありがとうございました。
霊界を向上させるために、私も努力をしてまいります。
本日は、私のために時間を割いてくださり、遠隔浄霊をありがとうございました。
40代 女性
~~~~~~~~~
天心様
浄霊ありがとう御座いました。
その時間帯、会議に出ていましたが、
途中で眠くなってしまい(笑)
ウトウトしている時に、下半身が泥に埋もれて
いるような感覚がありました。*1
9:43でした。
昨日のブログ記事でお書きになっている
「ノイズ」みたいなものかもしれませんが、
一応ご報告申し上げます。
○○○○については、やはりコイツだったか、という感じです。*2
当たり前過ぎて、あまり意識していませんでした(苦笑)
カトリックの教義を勉強している時に憑いてきた
ものかと思われます。
・・・中略・・・*2
また、自殺者霊人というのは少々意外でした。
小学生の頃から、些細な事で死にたくなる
事はありましたが、深刻なものではないので、
気にしていませんでした。
ただ、昔から、夜寝る時に、翌朝ちゃんと目が
覚めるか不安になる事はしばしばありました。
また、「息ができないような状態」との事ですが、
昔から、睡眠時無呼吸症候群ですが、何か
関連性があるのかもしれません。
あと、不整脈でもないのに、心臓が止まるのではないか、
と意味なく不安になる事もありました。
(過去世で胸を撃たれて戦死したのかと思っていました)
・・・中略・・・*2
今回は、処置/霊界へと送り返し、していただいた
との事ですので、安心致しました。
重ね重ね、ありがとう御座います。
これからは、天命を全うし、守護霊様や直霊魂様
と合一すべく、学びと実践に励みます。
守護霊様、天心様、ありがとう御座いました。
30代 男性
~~~~~~~~~
天心様、二人の遠隔浄霊をしていただき、本当にありがとうございました。
なんだか姿勢がよくなった気がします。笑
まさか憑いていたのが○○だったとはと驚きです。*2
悪意だけの存在とは、聞いただけで恐ろしいです。
いつか私の精神力があまり左右されないほど強くなったら、いろいろ勉強してみたいものです。
この5年苦しい事や試練が続いた為、自分という存在がわからないくなっていました。
自分の選択という選択、全てにおいて自信がなくなっていました。
祓って頂いた今、教えられた通り前向きになる努力を必ずします。そして魂本来の生き生きした感情で過ごしてみたいと思います。
書いていて、胸にじーんと響くものがあります。
守護霊様に感謝します 。
天心様、本当にありがとうございました!!
お元気で。
ではでは
30代 女性
~~~~~~~~~
天心 様
母の浄霊、本当にありがとうございました。
以前、霊能者の方に、兄は 「突然亡くなった為、自分が亡くなった事にも気づかず
浮遊霊のようになっている」 と言われたのですが、
その方に、母は 「ギリギリ成仏している」 と言われていました。
天心様のお返事を読み、納得いたしました。
苦しんではいないものの、決して良い霊界にいたわけでもなかったのですね。
>今までの霊界よりも少し上の気持ちの良い霊界に移動していただきました。
本当に良かったです!
二人の事は、長い間気になっていた事なので、安心しました。
時々お墓参りに行くのですが、その際には、兄にも母にも霊界での修行を頑張るように
祈ろうと思います。
兄に続いて母まで救っていただき、この度は本当にありがとうございました! m(__)m
30代 女性
*1 天心註釈:遠隔浄霊の際に起こる反応です
*2 天心註釈:プライバシーに関わる具体的な内容部分であることと、長めのご感想であるため省略いたしました。
他にも沢山のフィードバックをいただいておりますが、今後、折を見て発表できればと思います。
天心 拝
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釈尊が見た幸せの真相(その3)

釈尊が見た幸せの真相(その2)の記事からの続きになります。
前回はお釈迦様の目線から見た幸せにおいて、欠落している点について指摘してみました。
お釈迦様は現世の実態として苦しみに満ちている状態であることに着眼していました。
そして、苦しみを除けば幸せになることができると考えていたわけです。
そのために何故に現世での苦しみは存在しているのか、そもそも現世に何故に人は生まれてきたのかという点について欠落してしまっていることをお話しました。
お釈迦様は苦しみから抜け出して幸せに至ろうとする考え方であるのに対し、本来的には神界はその苦しみを触媒として、魂の意志を表現していくことを主として意図しています。
なんだかお互いの考え方は矛盾しているかのように思えますが、本当はコインの裏表、あるいは陰と陽のように補完しあっています。
お釈迦様の考え方は基本的には、現世を含めて一切の私達が実体があると認識している存在をことごとく、「空(くう)」であるとみなしています。
「空」とは、何かといえば、一切の実体はなく、その可能性だけがそこにはあるという考え方とでもいえば良いでしょうか。
とても、難しい概念ですがお釈迦様が言いたかったことは、私達が泣いたり笑ったり怒ったり喜んだりしている対象物や現象というものは、全て実体がないということです。
実体がないものに対して、人はこだわり執着し、その挙句に不幸を感じて、苦しんでいるというわけです。
何故、そのような滑稽ともとれる状態に人は陥ってしまうのかというとそれは無明(むみょう)、すなわち、現世の物事は全てが実体がないということを理解もしていないし、実感としてそれを体得していなからだとお釈迦様は考えたわけですね。
だから、本当は私達が血道を上げて取り組んでいること、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだりしていることというのは、実体がないもので追いかけても何かを掴めるようなものではないということをお釈迦様は仏法として教えることで、悟らせようとなされたわけです。
「そんなにこだわって苦しんでいるけど、本当はそんなことで苦しむ必要はないんだよ」
こんなふうにお釈迦様は色んな苦しみに囚われている人に語りかけているわけですね。
しかしながら、これは言わば、演劇の鑑賞中に舞台裏の袖をまくって見せているのと同じことでもあるわけです。
「怖そうな龍がいるけど、本当はただのハリボテだよ」
「みんな、毒を飲んで死んでしまったロミオとジュリエットを見て悲しみの涙を見せているけど、全部、お芝居で本当は死んでなんかいないんだよ」
「ピーターパンが空を飛んでいるように見えて、みんなワクワクしているようだけど、本当はワイヤーロープで吊るされているだけなんだよ」

こんなふうに演劇に夢中になり、怖がったり、ハラハラしたり、悲しみの涙を流したり、ワクワクと胸を躍らせている観客に向かって、我に返そうと必死に説いているのがお釈迦様でもあるわけです。
確かに演劇はお芝居でありフィクションです。
お釈迦様の言っていることは正しいと思います。
そして、演劇の裏舞台を見せつけられてしまえば、あるいは、私達が心を動かされてしまうものに対して真実の姿を開示してしまえば、おそらく見ている私達はきっと演劇の世界から抜け出て我に返ってしまうことでしょう。
しかし、これは、演劇を鑑賞する観客としての正しい姿勢だと言えるでしょうか。
そんなことをしていては、白けてしまいます。
演劇を見るときには夢中になって、その世界に没入して演劇を楽しみ味わうべきだと思うわけです。
こう考えるとお釈迦様のスタンスをそのまま実行すると本来の意図が台無しになってしまう可能性があるということがわかるかと思います。
では、お釈迦様の考え方は問題があるから意味がないのでしょうか。
そうではありません。
逆に言えば、演劇の世界にのめり込むあまり、本当の真実から目を背けがちになってしまうことも私達にはままあります。
ロミオとジュリエットの演劇を見ていつまでも感傷に浸り、二人の悲劇を嘆き悲しんでいたら、自分自身の人生という本筋を忘れてしまいかねません。
観客は演劇を見終わったならば、再び、自分自身の人生へと回帰していく必要があります。
しかし、演劇の世界にハマりすぎるとそれが出来なくなることがあるわけです。
では、どうすべきなのでしょうか。
私達は演劇を見ているという自覚を持ってそれを味わい楽しむという境地を目指さなければならないわけです。
神界の意志、魂の意志へと回帰しつつも、世の中で、あるいは人生で起こる様々な出来事を味わいながら、そこには本来的には実体はないのだ、ただあるのは魂を輝かし表現する場があるのみだという真実を忘れずに生きる。
このことが出来る時、私達はお釈迦様の考えの深いところも理解し、尚且つ神界の意志、魂の意志に反することなく現世を生き抜く道筋を得ることができるのではないでしょうか。
以上、釈尊が見た幸せの真相シリーズの着地点として、述べさせていただきました。
長々とお付き合いありがとうございました!
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釈尊が見た幸せの真相(その2)

釈尊が見た幸せの真相の記事からの続きになります。
前回は、お釈迦様の目線から見た幸せについてお話してみました。
詳細は上記リンクの記事を参照していただくこととして、簡単にサマリーをご紹介しておきます。
私達が幸せと感じる際には何かしら得たいと思う欲求が満たされた時だという認識であるのに対して、お釈迦様は得たいものが得られないという状態の苦しみを除くことが幸せだと考える。
このことが大きな幸せの定義の違いであるということをお話させていただきました。
お釈迦様は苦しみがなくなれば、幸せを阻害するものがなくなるのだから、永遠の幸せを手に入れることができる。
そのように考えたようです。
もちろん、そのような結論に至った経緯としては、この世の法則や道理に気づき、理解し、しっかりと身体で体得したからなのではありますが、結論だけを抜き出すと、苦しみを滅して幸せになろうというのが、お釈迦様の提言であったわけです。
理屈上はとても正しそうな考え方ではありますが、実際問題として、私たちは苦しみの元凶である煩悩を一切消し去って、永遠の幸せを手に入れることはできるのでしょうか。
有り体に言えば、これは中々難しいことだと思います。
そもそも人は生きていれば何かしらの欲求が生まれるものです。
欲求とは生きたい成長したいという意志にも繋がるものだからです。
確かに欲求がなければ、それが得られないという苦しみは生まれないかも知れません。
得たいと思うから苦しいというのは理屈上では正しいことだと言えるでしょう。
しかしながら、もし、煩悩を一切退けて、一切の欲求から自由になった時、私達は幸せになれるかも知れませんが、一つの疑問が残ったままになることになります。
それは、何故、私達はこの現世という苦しみが満ちていることが分かりきった世界に生まれてきたのかという疑問です。
仏教では、カルマと呼ばれる因業によっていかなる世界に生まれるのかが決まると言います。
カルマを超克して、自由になれば、再び、現世に生まれ変わって苦しむこともない永遠の快楽に至ると考えているわけです。
現世に生まれなければ、苦しみもまたない。
これが究極の仏教思想を極めた結論なのかも知れません。
しかし、では、何故、神様はあるいは、宇宙や神界、大いなるエネルギー、なんと読んでも構わないけれど、そういったものはこの現世を作り出したのでしょうか。
超克しなければならないようなものをわざわざ沢山作り出して、結局、それを否定して乗り越えていく。
考えてみるとバカバカしい話だと思いませんか?
残念ながら所謂、仏説ではこういった発想は生まれてこないものでもあります。
そんなことを考えるより、苦しみの元凶を乗り越えて幸せに至ろうというのが、仏説での主張です。
お釈迦様も毒矢の例え話などをして、毒矢が刺さって死にかけている時に色んな理屈を追いかけるより、まず、毒矢を抜いて治療することが先決だと諭しています。
しかしながら、やはり、根本的な疑問は残るわけです。
この疑問を解決するためには、私達は魂というものの性質と向き合わなければならないと思います。
魂とは神界より授けられし、私達の主体的意志を表す存在です。
何故、わざわざ苦しい状況で満ちている現世というフィールドを作り出したのか、それは、ひとえに神界の意志でもあります。
神界の意志とは何か。
あるいは魂の意志とは何か。
それは、どこまでも成長し進化しあらゆる真・善・美を表現し、あらゆる可能性を具現化し広げてゆきたいという意志なのです。
だからこそ、その材料として様々に分化されてバラバラに存在する個があり、あたかも対立するかのような要素が色々とせめぎ合う世界をわざわざ作ってきたと言えます。
この神界の意志から考えるとき、単純にお釈迦様の苦しみを滅して幸せに至るという方法論は不完全であるということが言えるのです。
もちろん、だからといってお釈迦様の考えや悟りが全否定されるわけではありません。
むしろ、もっと深い部分での悟りや咀嚼を持って吟味すると何故、お釈迦様が解脱の法を説かれたのかがわかってきます。
しかし、単純にお釈迦様の論理をそのまま採用してしまうと神界の意志とは真逆の方向に向かってしまいかねないのも事実です。
次回は、神界の意志のあり方とお釈迦様の論理をもう少し見比べて、私達はどのように幸せを追求していくのが良いのかを考えていきたいと思います。
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釈尊が見た幸せの真相

今回は「幸せ」というものを仏教の始祖でもあるお釈迦様の目線からお話してみたいと思います。
私は過去記事では幸せとは感覚であり、形のないものという視点からお話させて頂いてきました。
これも一つの幸せの考え方ではあるわけですが、お釈迦様が考えた幸せとは一体、いかなるものであったのかを知っておくと自分自身の心の中で幸せとは何かを整理する時の役に立つのかと思います。
また、お釈迦様は結構、独特な考え方をされています。
私たちが考える幸せとお釈迦様の考える幸せについて対比して見ることで、仏教では本来的に何を主張しているのかがわかるので一つの学びになるのかと思います。
さて、まず、私たちが「幸せ」と感じるために私たち自身、何が必要と感じているのでしょうか。
おそらく、簡単に言ってしまえば、自分自身が幸せになれると考えている理想像、ないし願望が成就されることではないかと思います。
結婚したい、お金持ちになりたい、美味しいものを腹いっぱい食べたい、人からチヤホヤされたい、名誉が欲しい、権力が欲しい、etc・・・
上げていけばキリがありませんが、ともかく欲しいと願うものが手に入れば人は幸せを感じるわけです。
この点において、あまり大きな反論は出てこないかと思います。
欲しいものが手に入らなくてハッピー!
という方は中々、お目にかからないものです。
誰しも欲しいものは様々に異なりますが、欲しいものがあれば、手に入れたいと願うものですよね。
しかしながら、この「幸せ」に対して、真っ向からアンチテーゼを行っているのがお釈迦様、その人なのです。
お釈迦様の考える「幸せ」とは一体、いかなるものなのでしょうか。
お釈迦様は幸せを逆説的に考えました。
私たちには欲しいもの手に入れたいものが沢山ある。
しかし、どんなに頑張っても手に入らないものの方が多い。
手に入れたいのに手に入らないという状態。
これを「苦」とお釈迦様は定義したのです。
お釈迦様の「幸せ」の定義は、私たち一般的な考え方とは違っていて、「苦」がない状態が「幸せ」であると考えたわけです。
この「苦」をなくしてゆけば、きっと私たちは幸せになれると考えたわけですね。
だからこそ、仏教では基本的に人間の欲求の本質を煩悩と呼び、煩悩を滅却することに務めることが主にあるわけです。
俗世間を捨てて出家したり、質素な生活に甘んじて修行をするのは、基本的に煩悩を捨て去るための一つの方法でもあるわけです。
しかし、これを聞いておそらく、「ちょっと待って!煩悩を捨てなくたっていいじゃない。願望を叶えれば苦は消えて幸せになれるのでは?」という意見が出てくることと思います。
確かにそのとおりです。
私たちは、願望を満たすことで、願望が満たされていなかった状態という「苦」が成立する前提がなくなります。
そうなれば、私たちは幸せになれるはずですよね。
これに対してお釈迦様はこう答えます。
苦が一つなくなったところで、人は次なる煩悩を追いかけて、再び、苦に至ってしまう。
結局のところ、煩悩には際限はなく、煩悩を満たすことで苦を消し去っても、再び煩悩は苦を生み出すように作られている。
お釈迦様はこの際限のない煩悩のスパイラルを十二縁起というプロセスで示されています。
お釈迦様は苦を完全に滅却して、永遠の幸せに至るためには、苦の根源となる煩悩を滅却する以外にないと考えた
わけですね。
確かに煩悩がなければ、欲しい、手に入れたいという欲求が生じません。
欲求が生じないということは、欲求が満たされないという「苦」も生じません。
「苦」が生じないのだから、「苦」は存在しない。
故に「幸せ」な状態が維持されるというのがお釈迦様の基本的な発想であったと言えるわけです。
以上がお釈迦様の目線から見た「幸せ」になります。
さて、お釈迦様の目線から見た「幸せ」は、論理的には正しいように見えますが、果たして神界の視点から見た場合に本当にこれで良いのでしょうか?
その点について次回はお話してみたいと思います。
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霊人が救済される時

霊人が下部霊界で苦しんでいたり、現世と霊界のはざかいで迷っている状態を改善し救済するためには様々な方法があります。
その方法の一つが浄霊というものです。
しかし、浄霊の実態が良くわからないため、なんとなくぼんやりとしたイメージで浄霊などを捉えている方も多いと思います。
そこで少し浄霊の際に霊人が救済されるメカニズムについてお話してみたいと思います。
霊人が霊界で苦しむのは、様々な事情がありますが、大きな視点で見るとそれは負のエネルギーが増大化しすぎて、幸せを感じる正のエネルギーが枯渇した状態であるからだと表現できるかと思います。
つまり、簡単に言ってしまえば、負のエネルギーを除去するか緩和するかして、正のエネルギーを充填して上げると霊界が代わり、そこに絡め取られている霊人も苦しさから救済されるという形になるわけです。
このことを別の言葉で表現すると霊界の移動、霊層の向上させるなどの言葉になるかなと思います。
本当はメカニカルな仕組みがあってなされていることも、そのままの仕組みを単純に表現してしまうと機械的に浄化が行われているように思われるかも知れませんがそうではありません。
そこには血の通った暖かな真心があって出来るものであって、単に技術的な方法論だけでは決してできないものでもあります。
「医は仁術」という言葉がありますが、浄霊というものも実は、技術も必要ですが、それ以上に愛と真心が必要でもあるのですね。
さて、霊人を救済する話に戻りますが、救済されなければならないような霊人は得てして負のエネルギーを抱え込んでいます。
その負のエネルギーを決済しない限りは霊界転換をすることが困難でもあります。
では、どのように霊界転換を行っていくのかと言えば、様々な方法がありますが一番基本となるのは、負のエネルギーを発散するということなんですね。
具体的に言うと、負のエネルギーをどこかで肩代わりして、発散して霊人の重くのしかかっているものを取り除く必要があるわけです。
負のエネルギーを肩代わりしてくれているのは誰かというと浄霊の時にお働きしてくださる神霊神仏、そして取次者です。
だから、取次をする時は大なり小なり何らかのカウンターアタックを受けることになるのですね。
もちろん、これも技術的に回避、緩和する方法もあります。
ただ、やはり、どこかで少しずつ影響は受けてしまうものでもあります。
おそらくこれは、取次者自身も苦しみを理解しないと本当の意味での慈悲や愛は生まれないからなのかも知れません。
痛みがわからないとどこかドライに取次をしてしまい、全てをメカニカルに解釈していつの間にか心が失われてしまうことにもなりかねないからこそ、こういったダメージを受けるように出来ているのかも知れません。
このようなお話をすると良く「苦しみを与えて申し訳ないから、取次を申し込むのは遠慮しよう」と考えてしまう方もいらっしゃるようです。
しかし、こういった発想をされる方には、少し誤解があるようなので、誤解を解くためにもお話をさせていただきたいと思います。
例えば、医者はいつでもどこでも患者と対峙して、治療にあたります。
その時には患者の感染したウィルスに自分も感染してしまうかも知れません。
あるいは、爛れた幹部に触れて、自分も膿にまみれながらも治療をすることでしょう。
もちろん、医者だって人間です。
そういったことをする時にはリスクも発生するでしょうし、キツク感じることもあるでしょう。
しかしながら、患者さんが「お医者様にウィルスを移しちゃ悪いから」「こんな膿だらけの患部を見てもらうに忍びない」なんて思っているとしたら医者はきっと「それが私の使命ですよ。いらぬ心配はしないでください」と言うに違いありません。
自分には手に負えない病気や怪我であれば、別ですが、例え苦しくともリスクが伴おうと、自分の使命において出来ることであれば、果敢に立ち向かうのが医者の本心ではないでしょうか。
なので、取次鑑定でダメージを多少受けるというくらいで、私自身は怯むことはないのです。
霊的ダメージを与えるからとあまり心配しすぎないで頂きたいと思っています。
少し脱線しましたが、霊人が救済される時には負のエネルギーの決済と正のエネルギーの充填が必要というお話をさせて頂きました。
何かの参考になれば幸いです。
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神社でのマナー

先日、箱根神社への参詣をさせて頂きました。
関東の中でも山や森、湖といった自然に囲まれた場所に鎮座する関東総鎮守の箱根の神域はいつ詣でても清々しいものです。
中々、有名な神域でもありますので、詣でる参詣客もそれなりにいらっしゃいます。
山の上の方にありますので、浅草寺のような観光地さながらの騒然とした賑やかさはありませんが、それでも、元箱根のバス停を降りると参詣客の足取りは箱根神社へと向かう姿も見られます。
さて、今回はちょっと皆様にも考えて欲しいなという思いも込めて、先日の参拝時の出来事についてお話してみたいと思います。
私は、様々な神社・仏閣に詣でさせていただいておりますが、箱根神社ももう二十歳の頃くらいよりあしげく通わせて頂いている神域の一つです。
月に一度は時間を作り、電車を乗り継ぎ、バスに乗り、山の上の雄大な自然を感じながら意識を箱根神社に向けながら向かいます。
そして、拝殿につくと本当に様々なお祈りをさせていただいています。
色々あるため、どうしても拝殿でのお祈りの時間は長くなります。
おそらく、他の一般参詣客の方々は、私の姿をみて、「この人そんなに何をお祈りしてるのだろう?」と訝しく思っていることでしょう。
私は、どう思われても全く意には介していませんが、ただ、あまり、他参詣客の参拝の邪魔になったりしないようにあまり真ん中辺でお祈りしないように、かなり端っこの方で細々とお祈りさせて頂いています。
実際には端っこでも、心の中は大神様の大前にいるつもりでお祈りしています。
本来ならば、真ん中で堂々と時間をたっぷりかけてお祈りしたいところですが、神社には様々な参詣客がいらっしゃいます。
ある意味では公共の場とも言える場所ではないかと思うわけです。
(実際には神社を運営する神主さんが主となる場所ではります。)
だから、それなりのマナーとういものを意識しないわけにはいかないのです。
そんな矢先、細々と端っこで邪魔にならないようにお祈りしているとどこからか大音声のお祈りの声が聞こえてきます。
神道系の祝詞、般若心経、色々と音吐朗朗と奏上されている模様。
普段は私はお祈りに集中しているので周囲の人が何をしているかには全く意識を向けていません。
しかし、一般客がいらっしゃる和やかな境内の雰囲気の中、ちょっと異様ともとれる、マニアックな宗教的祈り声に私の意識が現実に引き戻されたのです。
私はちょっとだけ、薄目を開けて、声をする方をチラ見しました。(笑)
私の想像では年配の信心篤い方?といった姿を想像していたのですが、そこでお祈りしていたのは、20代くらいのうら若き女性でした。
二重の意味でちょっと驚きまして(笑)、しばらく呆然として祈りに集中できなくなったのです。
もちろん、神社という神域で祝詞を上げることが、いけないとは申しません。
むしろ、正式なお祈りとしては祝詞も経典もあげることが良い場合も多々あります。
しかし、神社には様々な人が集まります。
結婚式をされる方、七五三のご挨拶に来る方。
宗教的な意味は濃くは持たない一般参詣の方。
色んな方がいろんな事情でお詣りに来ます。
どんな人でも来るもの拒まず、去るもの追わずの自由で大らかなところが神社の良いところでもあります。
そんななかで音吐朗朗、大音声でお祈りをしかも真ん中で行っているとびっくりしたり、ちょっと怖く感じる人もいらっしゃるはずです。
もちろん、お祈りしていた女性に悪気はないと思います。
ただ、一心に真心を込めて、己の信じる作法で真面目にお祈りしているだけなのだと思います。
私は非常にその気持ちはよくわかるのです。
私自身も20代の時は、若気のいたりで、情熱だけで突き進んだこともあります。
それから、大神様に真っ直ぐに向き合いたいという気持ちもよくわかるのです。
でも、やっぱり、少しだけ周囲の参詣客にも気を使った方が良いと思うのです。
とりわけスピリチュアル系の造詣が深まってくると、よく陥りがちなのが、スピリチュアル的信念に準じるあまり、社会性を逸してしまい、周りが見えなくなってしまうという点なのです。
「私はこの神社の神様とは仲良しだから」という理由を述べて、いつも神域のご奉仕をされている神主さんが、おやめくださいと立札などで書いているのに、神社の石を勝手に持ち帰ったり、ご神木に抱きついてみたりされる方もいるようです。
親しみたい気持ちは本当によくわかるのですが、主たる奉仕をされる神主んさんがおやめくださいと言っていることは、如何にスピリチュアル的な信念があるからといっても、それは遠慮すべきです。
箱根神社を始め、有名な神社であればあるほど、様々な人が紹介をしたり、とりわけスピリチュアル系の雑誌や人が紹介することで、多くの参詣客が訪れるようになっています。
色んな人が集まる神域を穢すことなく、仲良く共有していくためには、マナーをわきまえることも必要かなと思います。
なので、私もブログやFGSの会にて神社、仏閣を紹介したり、お祈りの仕方を開示したりしてはいますが、くれぐれも参詣する際にはマナーという意識は忘れないで頂けたらと思います。
天心 拝
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霊的グッズも汚れるとマイナスになる

スピリチュアルに関心のある方ならば、自分の運気を上げたいと願って様々な霊的グッズを身に付けるという場合もあるかと思います。
神社の御札お守り念珠パワーストーン、他、様々な霊的な効果が期待できるツールが世の中には沢山あります。
私たちは思わず、神社でいただいたものざねや、霊的なパワーのあるグッズと聞けば思わず、なんだかありがたい気持ちになってしまうことも多いものです。
しかしながら、霊的グッズというものは必ずしもプラス効果をいつでも表してくれるとは限らないものなのです。
最初は神気に溢れていた神札も、時が立てば穢を受けて、そこから神聖さが失われてきます。
念珠やパワーストーンも利用していれば必ず、穢を受けてくるものでもあるのです。
浄化をすることである程度、リサイクル的に利用することは可能な場合もありますが、やはり、古くなったものは、新しく生まれ変わらせるという意味でも、いつまでも使わない方が良い場合もあります。
特に霊的グッズというものは、その分、霊界と繋がっているものでもあります。
なので、穢れてくるとマイナスの効果も倍増してしまうという部分もあります。
ボロボロの御札をいつまでも神社にお返しせずに掲げていると神気は消えて、今度は逆に怪しげな霊気を持つ存在がそこに掛かってくる場合もあるのです。
こんなことをお話すると怖がらせてしまうかと思い、あまりお話しないようにしてきましたが、昨今では霊的グッズを愛用される方も増えてきているように思いますし、正しい使い方というものを理解しておいたほうが良いと思いましてお話させていただくことにしました。
霊的グッズの替え時という意味では、ちょっとリカバリー不能なほど汚れてしまったなと思う時、あとは直感的にあまり良い感じを霊的グッズから得られなくなった時が良いかと思います。
私も一時期、川崎大師で頂いた水晶のパワーストーンを身につけておりましたが、三ヶ月と立たない内に、邪気でいっぱいになり、はめていると余計に苦しくなるという経験をしたことがあります(苦笑)
まだ、見た目上では使えるように見えるのですが、ちょっとパワーを入れ直ししても難しそうだったので、諦めて外すことにしたのです。
もちろん、私の場合は邪気に敢然と立ち向かわなければならない場面が多いので穢を受ける率が必然として多くなりがちです。
なので、割と早い段階でパワーストーンの寿命が来てしまった部分もあります。
必ずしもパワーストーンの期限が私のケースと一致するとは限らないので、それぞれのケースでご判断していくことが大事かと思います。
今回は、霊的グッズも汚れるとマイナスになるということでお話させて頂きました。
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いつもの自分らしくない

人は時々、イライラしたり、自分では考えられない発想や行動に出てしまうことがあります。
これはマイナスの意味で「いつもの自分らしくない」状態と言えると思います。
いつもの自分ならこんな行動をしない。
こんなことを言ったりしない。
そんな状態になってしまうことも時にはあるのではないでしょうか。
かく言う私自身もいつも同じベストコンディションで居られるわけではありません。
時々、自分らしくないな、おかしいなと感じる状態に陥ることがあります。
そこで問題なのは、そういった状態になってしまうことではなく、その状態が本来の自分の姿だと勘違いしたまま、最終的に自我意識に取り込まれてしまうことにあるのです。
元々、人には正負のエネルギー循環上、どうしても霊波動が乱されやすい時期があります。
また、ある条件下では霊波動が落ちる方向に進むことも多々あるのです。
ずっとベストな状態を維持できれば良いのですが、中々、そうはいかないこともあるものです。
そして、霊波動が落ちると下部霊界からの干渉を受けやすくなったり、所謂、低次元層、霊波長の荒い霊的存在に干渉されやすくなるため、益々、自分らしくない状態に拍車がかかる場合があります。
昨今ではポジティブなスピリチュアルが全面に押し出されて、こういったマイナスのことについては触れられない傾向があります。
もちろん、本来ならば、意識を向けない方が干渉は受けにくくなるので、それは良いことではあると思います。
ただ、最近、思うのは、ともかくポジティブなことだけを見て、ネガティブを見ないというやり方に限界を感じることもあります。
多少の霊波動の乱れなど、ほっておいても回復するケースも多々ありますし、霊的障害などについてお話はしない方が良いのかなとずっと思ってきました。
しかし、実際には、ポジティブ思考、前向き思考、意識を向けないというだけではどうにもならないケースに遭遇することもあります。
昨今のスピリチュアル系では、マイナスなものなどない、それは迷いの産物にすぎないと言い切る方も多く見られます。
確かにそう言い切ってあげたほうが、マイナスに意識が向きにくいよねと最初は賛同もしていたのですが、私自身、今まで経験してきたことや色んな方の悩みの相談を受けたりしている内にそう単純ではないなと思うようになってきた次第です。
意識を向けても向けなくても、下部霊界の干渉を知らずに受けて、自分の中の人格も少しずつネガティブな方向に向かわされてしまっている。
そんな人が向かうべき道がなく、苦しんでいることもあるのではないかと思います。
意識しないでマイナスをやり過ごしていくのが最初の基本的なスタンスとするならば、次なる霊的障害との対峙の仕方は、向き合って、それに対して処置していくことなのではないかと考えます。
そして、その対処の仕方の一環として遠隔浄霊なども取次させて頂いています。
もちろん、それ以外にも方法は沢山あるかと思いますが、今後は少しずつスピリチュアル的なネガティブ要素にも少しずつ言及していく機会を増やしていけたらと思っています。
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【公開質疑応答】効果的な寄付について

こんにちは。
天心です。
公開質疑応答を行っていきたいと思います。
質問をお寄せくださったのは、和元様です。
全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。
たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。
【質問】
効果的な寄付について、質問があります。
以前、ブログの中で、真心をもって神様が降りていらっしゃる神社に寄付をすると、より広い範囲で神様が動かれることにより、より大きく徳を積める、と仰っていましたよね。
今、フィリピンの台風により、被害にあわれた方に、寄付をしたい、と思っています。
通常であるならば、赤十字など、しかるべき機関に寄付した方が直接的な支援になるでしょう。
しかし、もし、しかるべき神社にその旨を祈り申し上げて寄付することにより、より広い範囲で神仏が働かれ、より大きく被害にあわれた方が救われるのなら、神社に寄付したいのです。
どちらが、大きな意味で、効果的な救いとなるのでしょうか。
今後も、全国各地で戦乱、自然災害が頻発するだろうと思います。
その度に、その地に確実に寄付金を届けてくれる機関かどうかを個人で調べて判断するよりも、信頼のおける神社でその旨祈り、寄付した方が安心できて楽なので、質問しました。
よろしくお願いいたします。
【回答】
和元様
ご質問ありがとうございます。
少しご質問の内容を拝見していて、誤解もあるような気もするので、まずは、ご寄付ということの本質についてお話してみたいと思います。
ご寄付というのは、まず現実面においては、何かの活動、あるいは誰か自身を支援する、救援するために行う、布施としての行為だと言えます。
平たく言えば、お金や物を提供して、誰かを(あるいは何かの活動を)バックアップするための行為なわけです。
現実面で効果的なご寄付ということを現実思考で考えてみるとまずは、確実にその支援したい方、救援したい方にその善意の施しが届くということが大前提だと言えます。
それを踏まえて、いかなる方法、あるいは物を寄付するのかとういことも考える必要があるでしょう。
お金が足りていないのであれば、お金で支援する必要がありますし、物資が足りていないのであれば、必要な物資を必要なタイミングで送ってあげるということも必要でしょう。
あるいは物ではなく、人出のような能力やマンパワーが必要となっている状況ならば、そのようなボランティア的な身体を動かしての施しが有効な場合もあるでしょう。
つまり、効果的なご寄付ということを現実面で考えると適したものを適したタイミングで適した規模を確実に行うということが効果的なご寄付だと言えるでしょう。
これがまず、現実思考で考えた際の効果的なご寄付の考え方だと思います。
しかし、ご寄付ということには、現実思考以外にも霊界思考におけるご寄付のあり方というものがあります。
現実思考で行うご寄付に対して、霊界で本当の意味で大きな意義を持つご寄付のあり方についてお話してみたいと思います。
まず、ご寄付というものは、真心を形に表すという一つのあり方だということです。
ここで言う真心とは、二心のない気持ちです。
ご寄付を効果的に行うという気持ちは現実においては、考える必要がありますが、霊界思考、スピリチュアル的な真実からすると実は大きな意味はないのです。
むしろ、どういった境地で寄付をしているのかという点が大事なわけです。
効果的な方法は?と考えてしまった時点で本来的には少し、真心から外れます。
では、真心からのご寄付とは何かというとそういった人為を挟まないで、感謝や愛情だけで心を満たして行う布施のことなのですね。
どうしても効果的な方法は?あるいは、このご寄付はどんな使われ方をするのだろう?などと色々と考えてしまうと段々と心が現実思考に傾きはじめて、真心から離れるわけです。
もちろん、そうは言っても、多少は考えてしまうものですし、全く考えないでするのも、現実思考とのバランスが取れないので、仕方がない部分もあります。
しかし、原則論を言えば、何も考えずに愛情や感謝、その人を支援したい、救済したいという思いが湧き上がった時はあまり考えずにその心のままにご寄付を行う方が霊界思考としては、純なる真心に近くなりますし、そのご寄付の霊界での意味は大きなものとなるのです。
私自身、取次鑑定などで何ゆえご寄付制にしているのかと言えば、ビジネスライクに鑑定料金ということではなく、御相談者と天心との間の真心のあり方、あるいは守護霊や神霊、神仏への真心のあり方をそこで実感し学んで欲しいという気持ちがあるからであります。
通常、人は、お店に行き何か買い物をしていくときに真心を込めることは、あまりありません。
「このお饅頭ください」
「100円になります」
「あっ100円ね!はい(^^)/○」
「毎度有り~(^^)/~」

このやり取りの中では決して、霊界思考における真心のある行為にはなっていません。
単なるビジネスライクな取引のあり方です。
もちろん、それがいけないと言っているのではありません。
私たちが生きていく上でビジネスライクなやり取りというものは、社会を営む上でも必要なことでもあります。
但し、霊界思考における本当の意味での真心のあるご寄付ということになると、ビジネスライクな要素はできるだけ少なくして、人の心と心が行き交い、そしてなるべく純なる気持ちで愛情や感謝の気持ちからする行為になってはじめて、スピリチュアル的なご寄付の意味となるのですね。
なので、取次鑑定は鑑定料金ではなく真心からのご寄付という形になっているのです。
ちょっと脱線したので、話を元に戻しましょう。
ご寄付には現実思考におけるあり方と霊界思考におけるあり方があるということは、お話した通りであります。
これを踏まえた上で、
>今、フィリピンの台風により、被害にあわれた方に、寄付をしたい、と思っています。
>通常であるならば、赤十字など、しかるべき機関に寄付した方が直接的な支援になるでしょう。
>しかし、もし、しかるべき神社にその旨を祈り申し上げて寄付することにより、より広い範囲で神仏が働かれ、>より大きく被害にあわれた方が救われるのなら、神社に寄付したいのです。
>どちらが、大きな意味で、効果的な救いとなるのでしょうか。

の質問について考えてみましょう。
フィリピンの台風の救済のためのご寄付を考えた場合に、赤十字にするべきか、神社に祈祷に詣でとそこで神仏へのご寄付とすべきか。
その答えは両方だと思います。
フィリピンへの人たちの具体的な支援は必要でしょう。
そして、神仏への加護を願い、神社に詣でて、真心からのお玉串をして一心祈願をさせていただく。
現実思考においても霊界思考においても、どちらもカバーする答えかと思います。
私も神社・仏閣に詣でたときに赤十字の募金や東日本大震災の救済基金、その他、障害者などを支援する募金箱が設置されているのを目にすることがあります。
その時は、神社、仏閣にも寄付をしますし、そういったボランティア支援にも寄付をしています。
もちろん、その人なりの諸事情もあり、沢山はできないこともあるかも知れませんし、両方は難しいと思ってしまう方もいるかも知れません。
でも、出来うる限りは私ならばそうします。
どちらが良いか?と頭を働かせているくらいならば、その時の心情にあった自分が込められる真心の限りでご寄付をするのです。
時には現実思考で有効なやり方を考えて寄付をすることもありますし、純然たる真心から行う寄付をする場合もあります。
頭で考えて選ぶ必要はないかと思います。
そして、最後にいかなる行為も愛と真心に帰一していくことで、その境は段々となくなってくるはずです。
どんな行為をしてもそこにご寄付の霊界思考における精神で持って望めば、そこには大きな正のエネルギーが生まれます。
その行為が時には神霊のおわします神域であるときもあるでしょう。
一方でボランティア的な支援活動のときもあるかも知れません。
仕事でやっている行為だって、仕事という気持ちを越えて、実行していくとき、それは寄付しているのと同じことになります。
そのような寄付の精神を理解しておけば迷うことはないと思います。
>今後も、全国各地で戦乱、自然災害が頻発するだろうと思います。
>その度に、その地に確実に寄付金を届けてくれる機関かどうかを個人で調べて判断するよりも、信頼のおける神社でその旨祈り、寄付した方が安心できて楽なので、質問しました。

楽をすることよりも真心を込めて、今できることをしていきましょう。
直接の回答ではないかも知れませんが、これが真の答えとなるかと思います。
以上、回答とさせて頂きます。
天心 拝
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