釈尊が見た幸せの真相

今回は「幸せ」というものを仏教の始祖でもあるお釈迦様の目線からお話してみたいと思います。
私は過去記事では幸せとは感覚であり、形のないものという視点からお話させて頂いてきました。
これも一つの幸せの考え方ではあるわけですが、お釈迦様が考えた幸せとは一体、いかなるものであったのかを知っておくと自分自身の心の中で幸せとは何かを整理する時の役に立つのかと思います。
また、お釈迦様は結構、独特な考え方をされています。
私たちが考える幸せとお釈迦様の考える幸せについて対比して見ることで、仏教では本来的に何を主張しているのかがわかるので一つの学びになるのかと思います。
さて、まず、私たちが「幸せ」と感じるために私たち自身、何が必要と感じているのでしょうか。
おそらく、簡単に言ってしまえば、自分自身が幸せになれると考えている理想像、ないし願望が成就されることではないかと思います。
結婚したい、お金持ちになりたい、美味しいものを腹いっぱい食べたい、人からチヤホヤされたい、名誉が欲しい、権力が欲しい、etc・・・
上げていけばキリがありませんが、ともかく欲しいと願うものが手に入れば人は幸せを感じるわけです。
この点において、あまり大きな反論は出てこないかと思います。
欲しいものが手に入らなくてハッピー!
という方は中々、お目にかからないものです。
誰しも欲しいものは様々に異なりますが、欲しいものがあれば、手に入れたいと願うものですよね。
しかしながら、この「幸せ」に対して、真っ向からアンチテーゼを行っているのがお釈迦様、その人なのです。
お釈迦様の考える「幸せ」とは一体、いかなるものなのでしょうか。
お釈迦様は幸せを逆説的に考えました。
私たちには欲しいもの手に入れたいものが沢山ある。
しかし、どんなに頑張っても手に入らないものの方が多い。
手に入れたいのに手に入らないという状態。
これを「苦」とお釈迦様は定義したのです。
お釈迦様の「幸せ」の定義は、私たち一般的な考え方とは違っていて、「苦」がない状態が「幸せ」であると考えたわけです。
この「苦」をなくしてゆけば、きっと私たちは幸せになれると考えたわけですね。
だからこそ、仏教では基本的に人間の欲求の本質を煩悩と呼び、煩悩を滅却することに務めることが主にあるわけです。
俗世間を捨てて出家したり、質素な生活に甘んじて修行をするのは、基本的に煩悩を捨て去るための一つの方法でもあるわけです。
しかし、これを聞いておそらく、「ちょっと待って!煩悩を捨てなくたっていいじゃない。願望を叶えれば苦は消えて幸せになれるのでは?」という意見が出てくることと思います。
確かにそのとおりです。
私たちは、願望を満たすことで、願望が満たされていなかった状態という「苦」が成立する前提がなくなります。
そうなれば、私たちは幸せになれるはずですよね。
これに対してお釈迦様はこう答えます。
苦が一つなくなったところで、人は次なる煩悩を追いかけて、再び、苦に至ってしまう。
結局のところ、煩悩には際限はなく、煩悩を満たすことで苦を消し去っても、再び煩悩は苦を生み出すように作られている。
お釈迦様はこの際限のない煩悩のスパイラルを十二縁起というプロセスで示されています。
お釈迦様は苦を完全に滅却して、永遠の幸せに至るためには、苦の根源となる煩悩を滅却する以外にないと考えた
わけですね。
確かに煩悩がなければ、欲しい、手に入れたいという欲求が生じません。
欲求が生じないということは、欲求が満たされないという「苦」も生じません。
「苦」が生じないのだから、「苦」は存在しない。
故に「幸せ」な状態が維持されるというのがお釈迦様の基本的な発想であったと言えるわけです。
以上がお釈迦様の目線から見た「幸せ」になります。
さて、お釈迦様の目線から見た「幸せ」は、論理的には正しいように見えますが、果たして神界の視点から見た場合に本当にこれで良いのでしょうか?
その点について次回はお話してみたいと思います。
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