心に残った守護霊からのメッセージ24

心に残った守護霊からのメッセージをご紹介してみたいと思います。
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火沢睽(かたくけい)
背きあうは我見、我執を通さんとする心にあり
調和の真を得る心で望めば
太平和楽の道広がるなり
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反目しあったり、喧嘩して争ったりするのは、結局のところお互いが自分の正義を信じて通そうとするからだと守護霊様は言っています。
大事なことは、自分の中の正義を信じることではなく、本当の真実は何か?という問を忘れないことと、自分の我を通すことを主とせずに真実をお互いに導き出そうとする共通の認識を持てるかどうかにあるということです。
争いになるのは、いつだって自分の見方、自分の感じ方を押し通そうとする時に起こるものだというお諭になります。
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【公開質疑応答】悔しい気持ちは原動力になる?

こんにちは。
天心です。
公開質疑応答を行っていきたいと思います。
質問をお寄せくださったのは、めろんぱん様です。
全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。
たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。
【質問】
天心さま
こんばんは。
いつもブログ楽しく拝見しております。
質問募集ということで、また応募させて頂きます。
今回は「悔しい」という感情についてお聞きしたいと思います。
私事ですが、最近久々に「悔しい」という経験をいくつかしました。
私は現在夢を持っていて、その夢を叶えるべく努力中の身なのですが、
悔しい思いをして「今に見ていろ!」という気持ちで努力するのは果たして
良いことなのだろうか?と常々疑問に思っておりました。
先日も天心さまが話題にされていましたが、巷の「自己啓発」系の本には
「明るい心で過ごしていないと、良い結果に結びつかない」的なことが
よく書かれてあります。
私も最初それを読んで、悔しいことがあっても見て見ぬ振りをしていたのですが、
でも最近「この『悔しい』っていう気持ちも大切なのでは?」と感じるようになりました。
ですのでお聞きしたいことは
「悔しい、という反骨心を持って、努力するのは良い結果にならないのか?」
「この悔しいという気持ちを持つことで、自分の背後の霊界に何かネガティブな
影響が出てしまうのか?」
ということです。
どうかよろしくお願いいたします。
【回答】
めろんぱん様
ご質問ありがとうございます。
「悔しい」という気持ちというのは、果たしてネガティブポジティブかという問題について少し考えてみたいと思います。
日本語というのはとても難しく、同じ言葉であっても、その中に様々なニュアンスを含むものでもあります。
言葉だけでネガティブかポジティブかというのはとても判断は難しいものです。
一般的には「悔しい」という感情にはネガティブなイメージが付き従いますよね。
通常、「悔しい思いをしたいと思いますか?」と聞かれれば、誰だって「No!」と言いたくなるでしょう。
このことを鑑みれば、「悔しい」と思っている状態というのは、エネルギー的には負の要素を持っていると言っても良いでしょう。
しかしながら、一般には「悔しいという気持ちをバネに頑張る」という表現があります。
「悔しい」気持ちを原動力にして次こそはという気持ちと行動につながっていくことを期待しての表現かと思います。
このような表現が世の中にはあるために、おそらく「悔しい」という気持ちは大事なのでは?という考えを持つ方もいらっしゃると思います。
結果的なお話からすると「悔しい」という気持ちを抱く体験の後に努力して何かの成功をつかむというケースはあるかと思います。
そして、そのこと自体、マイナスであるとは考えてはいません。
このようなことを言えば、「では、やっぱり、悔しい思いをすることは、良い結果に結びつくのですね!」
と思われるかも知れませんね。
しかし、少し、悔しいという気持ちを持っている時の実際の状況を考えてみましょう。
欲しいものが得られなかった。
勝負に負けてしまった。
酷い侮辱を受けて傷ついた。
こんな状況の時に「悔しい」という気持ちは沸き起こりますよね。
では、本当にその後、ポジティブになって悔しさをバネに前を向くのでしょうか。
ちょっと想像してみてください。
おそらくは、悔しくて、泣けてきたり、もう二度と悔しい思いをしたくないと心の中に出来事が刻まれることと思います。
しかし、その後の展開は人それぞれになるのではないでしょうか。
結論から言うと悔しさは、単純には前を向く材料にはならないということです。
悔しい思いをしたくないから頑張るという逆説的な働きによって「悔しい」という気持ちを体験することが、人を前に進めていく力を生むことがあります。
しかし、そのような働きを悔しいという気持ちに期待をするならば、その人の中にもともとのポジティブで前向きな思考をするというメンタリティが必要になるということなのです。
悔しい思いをしたくない。
だから、もう努力したり頑張るのはやめようという方向に向かう人も多々いるものです。
悔しい思いをさせたアイツに復讐してやる!なんていう方向に向いてしまう人だっていることでしょう。
悔しいという思いを如何に昇華していくことができるのかは、その人の心根、すなわちメンタリティに前向きさや明るさが前提として備わっていないと難しいと言えます。
つまり、心根がもともと明るく前向きな境地が定まっている方ならば、悔しいという負のエネルギーを帯びる気持ちすらも正のエネルギーに変えて行けるということなのですね。
悔しさをバネにというと悔しい思いがさぞかし活躍して、成果を出せているかのように誤解しやすいのですが、実際のところは、その方の境地にもよるということなのです。
以上、ご回答とさせて頂きます。
天心 拝
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お神籤の処理の仕方

神社仏閣お神籤(おみくじ)を引いた際に持ち帰ったお神籤はどのように処理したら良いかについてお話してみたいと思います。
お神籤は神社や仏閣でお神籤を結ぶためのに結ぶと思っている方も多いと思いますが、あそこに結ぶのは、実は凶であるもの、あるいは内容があまり芳しくないもの、つまりは祓い清めて欲しいものだけになります。
引いた後は必ずお神籤を結べば良いと思われている節もありますが、そうではないのですね。
吉なる結果のお神籤であれば、持って帰ってお守り替わりにするという方法もあるかと思います。
ただ、そうは言ってもお神籤は保存には適していない作りになっていますし(基本、薄い紙ですからね)、すぐにボロボロになってしまうことでしょう。
また、お神籤に込められた神託の有効期限は厳密に決まっているわけではありませんが、二、三週間から一ヶ月程度です。
それが終われば、また違ったサイクルの運気に変わる場合もありますし、そもそも、霊界事情が変われば、お神籤の内容も有効でなくなってきます。
そのようなわけで、引いたお神籤が用をなさなくなった場合にどうしてらよいか持て余した経験があるかたもいらっしゃるのではないでしょうか。
一番良いのは、神社に古い御札を収める時にでも一緒に持っていくことですが、お神籤は御札と違い、気軽に引けるものですから参詣する度に引いていきますと結構たまってきます。
家の中が古いお神籤だらけになって、散らばってしまうと、ちょっと神仏に対して申し訳ない乱雑な状態に陥ってしまう場合もありますよね(苦笑)
そこで、お神籤を自分で処理して捨てる方法をちょっとご紹介してみたいと思います。
お神籤といえども、やはり神社の気が宿っていたものなので、あまり邪険にしてしまうのはよろしくありません。
何故、よろしくないかというと、神気の宿っていたものを蔑ろにしているという行為が私たちの心根にインプットされてしまうからです。
お神籤に宿る神気自体はそんなに長く留まっているわけではありませんが、それでも、媒体としてのお神籤を処理する際には、お断りをしてから捨てると良いでしょう。
「まことにて おくりますなり かみのふく いぶきなるかみ もとつにかえる」
このように唱えてから、「もうすでにコレはただの紙キレになった!」と念じて処理すると良いと思います。
以上、お神籤の処理の仕方でした。
ご参考まで。
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【公開質疑応答】下部霊界からの復活はある?

こんにちは。
天心です。
公開質疑応答を行っていきたいと思います。
質問をお寄せくださったのは、ともたろー様です。
全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。
たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。
【質問】
現世での行いで負のパワーを多くためてしまった場合、下部霊界に落ちてしまうとの事ですが、下部霊界の底の底まで落ちてしまった人が改心をし、霊界で頑張って修行をした末に向上をして、もの凄い神霊になる例はありますか?
下部霊界に落ちる人=悪魔、嫌悪、侮蔑、人として下等・・・など、そういうイメージがついてしまいますが、死後の世界など知らずに現世中心の意識やその時の感情で生きていれば、過ちをおかしてしまう事は、場合によっては仕方ない部分もあると思われます。
そういう人達が、ただ下部霊界に落ちて終わり・・・では、何となく腑に落ちないと感じました。
よろしくお願い致します。
【回答】
ともたろー様
ご質問ありがとうございます。
ご質問にあるとおり、下部霊界とは負のエネルギーを溜め込みすぎて、霊界の波動が低次元層でかつ、麗しい、清らか、軽やか、明るさ、楽しさ、幸せなどの正のエネルギーからかけ離れてしまった時の霊界をさします。
下部霊界にまで霊界次元、あるいは霊層が下がってしまうと、なかなか、そこから上部霊界に上がるのは困難になってしまうのは事実です。
しかしながら、私たちの霊界事情というものは、常に変動しています。
新説・霊界ストーリーなどでも少しお話していますが、下部霊界であっても、そこから救済して上部に移動するための活動というものが霊界ではあります。
神霊が働き、上部霊界の方へ引き上げるために日夜活動されているわけです。
ですから、以下の
>そういう人達が、ただ下部霊界に落ちて終わり・・・では、何となく腑に落ちないと感じました。
に関して言えば、そんなことはないというのが答えでしょう。
下部霊界にあっても、常に上に向かう機会はあるものです。
但し、現世に生きる人間に比べると霊人である時には、それがなかなかすぐには難しいとも言えます。
ですから、生まれ変わりなどをして現世であがない(霊的な穢を落とすために現世での修行をする)などをする場合もあるわけです。
>現世での行いで負のパワーを多くためてしまった場合、下部霊界に落ちてしまうとの事ですが、下部霊界の底の底まで落ちてしまった人が改心をし、霊界で頑張って修行をした末に向上をして、もの凄い神霊になる例はありますか?
これに関しては、事例としては何とも示し難いところではありますが、可能性としてはないとは言えません。
例えば、同じ負のエネルギーを込め込んだという状況でも、単純にエゴのままに生きて、何ら才能も磨かずに下部霊界にいる霊人は別にして、色んな経験を積み、才能を磨いたけれど、結果的に多くの負のエネルギーを蓄え込んでしまった人などは、負のエネルギーの精算が済めば、その才覚によって、一挙に霊界次元を上昇させることは可能だと思います。
例えば、戦国武将などで非常に学問も出来て、心も磨き上げた方などはいらっしゃると思います。
しかし、戦場では多くの人を殺めて、負のエネルギーも尋常でないものを背負っていて、結果的に亡くなった直後は下部霊界にいるという方もあると思います。
でも、元々の霊格や才覚はずば抜けているので、下部霊界から這い出て、いつしか神霊と呼ばれる次元にまで上がるケースはあるのです。
実は、守護霊の中に武士が多いのも、このようなケースがあるからなのですね。
武士は人を殺めたり、負のエネルギーを蓄えるような行為をどうしてもしなくてはならない場合が多いでしょう。
なので、最初は下部霊界にひっぱられてしまい死後は、そのまま、下部霊界にいて、修行や学びをしなければならないことになります。
しかし、元々の磨き続けた経験値や才覚は、決してなくなるわけではありません。
だからこそ、下部霊界からの脱却も比較的にスピーディにできるのです。
ちょっと、質問からずれるかも知れませんが、如何に学び、心の修養を行い、どのような負のエネルギーにさらされても、リカバリーできる魂の力をつけておくことが大事かという例とも言えるかも知れません。
>下部霊界に落ちる人=悪魔、嫌悪、侮蔑、人として下等・・・など、そういうイメージがついてしまいますが、>死後の世界など知らずに現世中心の意識やその時の感情で生きていれば、過ちをおかしてしまう事は、場合によっては仕方ない部分もあると思われます。
そもそも、「下部霊界に落ちる人=悪魔、嫌悪、侮蔑、人として下等」というイメージは裁きの心がなす評価に過ぎません。
下部霊界も上部霊界もその真意は、自分のあるべき霊的な位置を示す言葉にすぎないのです。
なので、この点は理解しておいた方が良いと思います。
また、「死後の世界など知らずに現世中心の意識やその時の感情で生きていれば、過ちをおかしてしまう事は、場合によっては仕方ない部分もある」というのは、そのとおりかと思います。
ですから、下部霊界にいるのは、何かの罰としてあるのではなく、霊界法則であり、誰かが意地悪してそうなっているわけではないのです。
もう少し、私の過去ブログを読み込んでいただければわかると思いますが、神様や仏様が私たちに罰を与えて、死後苦しめたり、下部霊界に貶めたりするわけではありません。
過ちは確かに、不可抗力として起こしてしまうことはあるでしょう。
誰でも完璧ではない以上、負のエネルギーを蓄えてしまうこともあるものです。
それを裁くことは本来的には誰にもできないことなのです。
しかしながら、霊界の法則というものは厳然と存在し、私たちがその法則に影響を受けている事実は変わりないのです。
もちろん、霊界の法則といっても、霊界そのもののことはわからなくても、私たちはどのように生きるべきか、どうある方が心は豊かになるのかなどは、宗教やスピリチュアル以外のことからも学んだり悟ったりすることはできると思います。
不運にもそういったことに出会う機会がなかったり、出会ったとしても謙虚に耳を傾けることをしなかった場合には、残念ならが霊界法則に従い、下部霊界に引っ張られてしまう場合も多々あるということです。
そして、そういったケースがあることがわかっているからこそ、神霊の霊団たちは、あの手この手で、私たちの心の修養をさせるために動いているというわけです。
以上、ご質問の回答とさせて頂きます。
天心 拝
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エデンの園を立ち去る時

暖かい愛情を一身に受け
何もかもが満たされている
とても幸せで優雅な時間
何も心配はなく
何も不具合はない
母の胸に抱かれていたときの心地
まるでエデンの園にいた時のアダムとイブのよう
でも、僕たちはその楽園をいつか立ち去るだろう
それは、決して神様から追放されたからじゃない
見放されたからじゃないんだ
楽園にずっといたほうが楽しくて幸せに違いない
でも、僕らはあえてエデンの園を立ち去るだろう
僕らは馬鹿なの?
いや、そうじゃないよ
僕たちは成長したかった
僕たちは成長したいから
楽園を出て行くことにしたんだよ
エデンの園はとても楽しくて
かけがえがないほど幸せに満ちていた
それを捨ててでも
僕たちは成長したかったんだ
いつかは愛すべき親の手を離れて
お気に入りだった人形も
フカフカで気持ちの良いベッドの感触も
手放す時がくる
それが魂の芽生えの時
魂が成長するということなんだ
エデンの園は遠くになったけど
その分、僕たちは成長できたかな?
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【公開質疑応答】縄文神の復活について

こんにちは。
天心です。
公開質疑応答を行っていきたいと思います。
質問をお寄せくださったのは、Paul様です。
全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。
たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。
【質問】
質問 : 縄文神の復活について。
詳細 :
最近、縄文神の復活について取り沙汰される事が増えて来たように感じられます。
つきましては :
1. 縄文神は本当に復活しつつあるのでしょうか?
2. 縄文神が復活すると、弥生時代以降の神仏はどうなるのでしょうか?
(弥生時代以降の神仏が否定される訳ではないと思っています)
3. 伊豆能売神様は、天照大御神様と関係がありそうだと思っていますが、どうでしょうか?
4. 瀬織津姫神様は天照大御神様の荒御魂なのでしょうか?
5. ククリ姫様のいらっしゃる白山が、人類発祥の地という説は正しいでしょうか?
6. 宮島には、厳島神社創建前から、大地母神がいらっしゃるのではないかと考えていますが、そうでしょうか?
※差し支えない範囲で結構です。
全部の質問でなく、一部の質問に対する回答でも結構です。
よろしくお願い致します。
【回答】
Paul様
ご質問ありがとうございます。
「縄文神の復活について」ということで、詳細を6つに分けてご質問いただいていますね。
内容が非常に専門的なというか、より突っ込んだ質問であるため、よくよく、熟読させて頂いて、どのように答えるのが良いのかを思案させて頂きました。
6つの質問に完全に回答しようとするととても、一つの質疑応答の記事では収まらなくなってしまいます。
なので、結果、少し、ご質問の趣旨から外れる部分も出てくるかと思いますが、より太極的観点に立った回答をしていきたいと思います。
6つの詳細の質問事項に関しては、その観点で都度、回答できる範囲でお話できればと思います。
では、早速、質問の回答をしていきたいわけですが、その前に前提知識の共有を他の読者の方ともしておきたいと思いますので、簡単に質問にある「縄文神」についてお話してみたいと思います。
「縄文神」とは、簡単に言えば、日本の歴史的な区切りとして表される縄文期以前から祭祀されていた神様のことであります。
また、縄文期が終わり、弥生期に入ってから祀られるようになった神様を「弥生神」と言ったりします。
この「縄文神」「弥生神」という区分けは、あくまで歴史的年代を基準にした分け方であるので、厳密にはそういった区分けが神界の中でなされているわけではありません。
では、なぜ、「縄文神」「弥生神」という呼び方をされるようになったのかと言えば、それは歴史的な時代の大きな転換期が縄文期であり、弥生期であるからです。
簡単に歴史の定説を紐解けば、弥生期とは、日本において稲作農業が始まり、渡来人の文明などがかなり混入して、全く新しい文明が築かれ始めた時期だとされています。
よく日本人は古来より農耕民族などと言われたりしますが、それは遡ると弥生期からになるわけです。
では、弥生期より前の縄文期はどうだったかというと、実は、農耕ではなく狩猟採集がメインの生活スタイルだったと言われています。
なので、私たちが古来から伝わると聞き覚えし文化や文明の礎の多くは弥生期から始まったものが多かったりします。
逆に縄文期の文化文明というものは、以外と謎めいていて、どうだったか定かではないのです。
これは、単純に生活スタイルということだけでなく、崇拝していた神様やスピリット的な存在も縄文期と弥生期では異なることも意味しています。
例えば、私たちの古来より継承している神道という風習があります。
神道は日本古来からの信仰といえば、誰も異議を唱えないし、間違いとは言えないでしょう。
しかし、実際には、私たちが知っている神道というものは、渡来人がもたらしたと思しき、儒教的、先祖崇拝思想、民族を守る守護神信仰、道教的な霊性、仏教に加えて、元々あった日本的な惟神(かんながら)の道(但し、この言い方も本質的には正しいかどうかは微妙)がベースとなり、なりたっています。
そもそも、神道という言葉も最初はありませんでした。
神道の「道」という言葉は道教のタオの思想を継承していますし、元々の語源は易経の風地観の卦の辞説の中に登場する言葉を拝借したものであることは事実であります。
神社に詣でてみればわかりますが、拝殿の両脇に狛犬が鎮まっていますが、あれは唐獅子から来ていますよね。
つまり、中国由来のものでもあるわけです。(とは言っても、狛犬は狼、狐、などバラエティがありますので、全てがそうだとは限りません)
このようなことからもわかるように弥生期とは、様々な神々が習合して、誕生した時代だと言えるかも知れません。
そして、弥生期を境にして、縄文期以前より崇敬されていた神様というものは、段々となりを潜めて、埋没してしまったと言われています。
ご質問にある「縄文神の復活」というのは、この縄文期以前からの神々が復権をしようとするムーブメントが起こっているということを指しています。
このことを踏まえた上で、まず、一つ目の質問に回答したいと思います。
>1. 縄文神は本当に復活しつつあるのでしょうか?
これは、単純に回答すればイエスだと言えます。
但し、縄文神に限らず、埋没した霊統というものが復活していく動きがあるというのが、より正確かと思います。
また、大事なポイントとしては、それは全てが歓迎できるものばかりとは限らないということです。
霊統の復活に際しては、様々な霊物や魔の系統のものも蠢いてきます。
まるでパンドラの箱を明けるがごとく、あるいは水滸伝にある百八の魔星を解き放つがごとく、色々と出てくるものなのです。
そして、時には人を惑わしたり、おかしな方向に導いてしまうものもあります。
ですから、審神をしていかなければ、単純に縄文神の復活というものを手ばなしで歓迎というわけにはいかないのです。
回答をまとめますと縄文神に限らず、様々な霊統は復活したりすることはあると言えます。
>2. 縄文神が復活すると、弥生時代以降の神仏はどうなるのでしょうか?
>(弥生時代以降の神仏が否定される訳ではないと思っています)

縄文神の霊統が復活したとしても、弥生神が否定されるわけでは当然ありません。
そもそも、弥生神とは、縄文期以前より日本の神霊界に広がっていた、習合して、昇華させる惟神(あえていうならば、他に言葉がないので)のフィールドが生み出してきた神々の霊統なのです。
必要があり、その時代時代に誕生してきた霊界あり、神霊達なので、今後もその意義が続く限りは機能し続けると思われます。
単純に縄文神がよくて、弥生神がダメという思想を持つ方もいらっしゃるようですが、これは裁きの心であり、調和の心が欠如しているように思います。
特に気をつけなければならないのは、「我こそは」という裁きの心全開の主張をする霊統を背後に持つ存在には気をつけたほうが良いのかも知れません。
>3. 伊豆能売神様は、天照大御神様と関係がありそうだと思っていますが、どうでしょうか?
そもそもの話をすれば、日本の惟神のフィールドに坐す神々は、根源をたどれば同じものにつながっていきます。
分化の働きにより、様々な個性はありますが、関係がないということはありえないでしょう。
>4. 瀬織津姫神様は天照大御神様の荒御魂なのでしょうか?
確かに天照大神の荒魂を祀る社に同じく瀬織津姫神様はお祭りされています。
しかし、単純に同一ということではないと思います。
瀬織津姫神様は、複合的な魂を持つ神様だと思われます。
>5. ククリ姫様のいらっしゃる白山が、人類発祥の地という説は正しいでしょうか?
少し不思議な言い方になりますが、どの時点の人類かという点にもよります。
これはあまり、詳細を滅多に開示すべきことではないと考えますので、名言は避けますが、人類発祥の地というのは少し違うと思います。
>6. 宮島には、厳島神社創建前から、大地母神がいらっしゃるのではないかと考えていますが、そうでしょうか?

これに関しても明言は避けたいと思います。
ただ、一つ言っておくと必ずしも神社が祀る祭神がその地に坐す神とは限らないといことです。
厳島神社は三女神が祀られる神社ではありますが、それ以上の働きと神霊界があるのは間違いありません。
宮島に関しても同様です。
以上、長くなりましたが、回答とさせて頂きます。
天心 拝
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誕生日と不惑

ほんのりした曇り空を見上げながら、とても混沌とした、これから何かが生まれる前のはっきりとしない様を夢想したりしています。
まるで、古事記にある天地の初めにくらげなす漂える状態を曇り空を見上げて想ったりしています。
本日は、私の誕生日でもあり、私は、こんな混沌とした空色の日に現世に生まれ落ちたのだろうかと想いを馳せています。
質問コーナーに寄せられた質問にもまだ未回答分があって、待っている方には申し訳ないのですが、本日のブログは、またまた、開運コラムとさせて頂きます。
私は、本日でめでたく?40代に突入することになったわけですが、私たちの人生のあり方というものは、ある程度の時期を持ってパラダイムシフトしていくものでもあります。
生まれてから9歳までは、ともかく一心に愛情を受ける、つまり受け取ることがメインになります。
10代からは自らの我(が)というものを形成するために様々なことを感じ、思い、考えていくことに費やされます。
20代は、自我に沿って、ともかく、経験を踏み、自らの血と肉を作っていきます。
自我をコントロールして、さらにその自我を乗り越えていくためにパワフルに動いていくのが20代と言えるかも知れません。
30代は、20代である程度完成した魂をさらにブラッシュアップしていくわけです。
30代というのは、20代の時のような力任せではなく、知性と感性、経験値などを含めてバランスと調和を考えていくことがポイントになってきます。
私の30代を振り返って、果たして、世代に準じた生き方が出来ていたかは、反省の残る点も多々ありますが、今度は、40代に入っていくわけなので、新たなパラダイムシフトが求められてくることと思うのです。
さて、40代はどう生きるべきかを考えてみることにしましょう。
論語の中の言葉で孔子「四十にして惑わず」と述べておられます。
40歳の方を指して「不惑(ふわく)」と呼ぶことの元の意味でもあります。
孔子は40歳にして心が惑わなくなったと主張していますが、40代はやはり、不惑に因んだ生き方をしていく必要があるのではないかと思います。
20代や30代は、まだ、志を求めて自分を練っていく時期であったとも言えますが、40代に入ると、アレコレと迷ったり悩んだりせずに志を一にして揺るがない自分を作っていく必要があるのかも知れません。
そのために何が必要なのだろうかと考えてみると、一つのメッセージを受け取ることができました。
それは、「人は捨てることによりて器なすものなり」です。
思えば、今までは一生懸命に何かを得よう得ようと、がっつきもがいていたところもあったのかも知れません。
より大きく、より沢山のものを求めて、自分を成長する糧としていくことを心がけていたように思います。
しかし、必ずしも多くのものを取り入れることばかりが成長の糧ではないことをこのメッセージは諭しています。
自分が何者であり、今生で何を引き受けて行くのか。
どういった役割を担っていくのかを決めていくのは、得ることではなく、捨てることだと教えてくれているのです。
自分に本当に必要なものが何であるのかを悟り、自分に不要なものは、自然な形で抜け落ちていく。
こういったことを経験し、段々といらぬものが抜けさって、自分が何者であるのかを悟るのが40代に入りやっていくべきテーマなのだということを教えて頂いたわけです。
もちろん、単純に30代、40代と数値上でテーマが割り切れるわけではありませんが、一つの目安として、そういった枠組みがあるということなのですね。
今回の記事は私事がメインとなり恐縮ではありますが、読者の皆様におかれましても、一度、自分の今の求めれているものは何であるのかを考えるキッカケになればと思います。
天心 拝
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【2013年11月度】神田明神への参拝

2013年11月度神田明神月参りをしてまいりました。
毎度のことながら、ご寄付の一部からお玉串をさせて頂きました。
もちろん、献灯の継続祈願串の奉納もさせて頂きました。
皆様に神様からの追い風の力が降り注ぐように祈念して参りました。
丁度、参拝した日は七五三のお詣り客と結婚式をされている行列で賑わっておりました。
喜びごとや行事というものを、こういった形に表すことで、益々に喜びの正のエネルギーは栄えていきます。
私もなんだかウキウキした気持ちで参拝をさせていただくことができました。
良い参拝ができましたことに感謝ですね。
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神田神社 少彦名之大神
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【公開質疑応答】正のエネルギーがあっても報われない?

こんにちは。
天心です。
公開質疑応答を行っていきたいと思います。
質問をお寄せくださったのは、にゃん様です。
全ての公開質疑応答は、御質問に回答するという形式をとっていますが、他の読者の皆さまにも共有できるような普遍的な内容となる回答を心がけています。
たとえ自分の質問ではなくても、大切なことをお話していることもありますので、是非、お読みいただければと思います。
【質問】
身近に徳のある人がおられます。
温厚で優しく、世話好きで、地域の民生委員をされており、
独居老人や生活保護の人やDVを受けたシングルマザーの人たちのお世話をしています。
また、ご主人は経営者で会社の寮に入っている社員の方々のお世話をしています。
寮に入っている社員さんの洗濯をしたり、米を差しいれたり、掃除をしたり、
お金を前貸ししたり、本当に大変です。
通常こういった徳のある人は正のエネルギーを蓄えているので
良いことがおこったり、思わぬ幸運があるはずではないかと思うのですが、
(そういう風に開運コラムに書いていました)
独身時代に貯めたお金をご主人の会社に貸してしまい、
ご自身の預貯金を食いつぶしてしまったり、ご主人の会社も借金を抱えています。
それでも人のお世話をしています。
良い人はお金に縁がないんだなと思う典型です。
スケールは小さいですが、マザーテレサの日本田舎版みたいです。
この世が全てでないので、死んだらそれなりの世界に行けるとしても
この世でも金銭的に困らない生活ができる方が安心だし、心にもゆとりができると思います。
ご本人もお金がないのが悩みです。もう60歳近いのに老後の資金もできてません。
こういった人生の方をどう思われますか?
私は、(この世では)報われてないと思います。
お金も心配ない程度にあって、人助けもできるくらいの方が幸せに決まってると思います。
宜しくお願い致します。
【回答】
にゃん様
ご質問ありがとうございます。
善良な行為を積み重ね、心根が善なる人は正のエネルギーを蓄える。
それが一つの霊界法則であることは何度も繰り返し記事でお話してきた通りではあります。
そう考えると、御質問のある、マザーテレサのごとく人のために善意の行動を取られてきた方は、幸せになって当然であると言えるかと思います。
しかし、一見して、そうなっていないように見えてしまう時があるのもまた事実です。
御質問のケースでは、金銭的に報われていないという点がそのように見える部分であるということだと思います。
確かに、一般常識的に考えれば、お金はあるに越したことはないし、社会である程度、豊かに暮らしていくためには、お金もある程度必要だと思います。
しかしながら、誤解を恐れずに言えば、それは、あくまで、他人の境地から見た幸せにすぎないとも言えます。
正のエネルギーは幸せへの顕現を促すものです。
但し、その幸せの形、そして次元はその人の霊的背景や境地に依存するものでもあるのです。
例えば、マザーテレサは、最後まで最貧国で、孤独な人たちを慰め助けるという一生を送りました。
大きな正のエネルギーを蓄えて霊界へ旅立たれたことも事実です。
霊界ではもちろん、一般人ではありえないほどの霊層に進まれています。
しかし、現実の彼女の過ごした状況をみれば、決して、それに見合うほど、豊かな暮らしがあったわけでも、報われているわけでもないと言えます。
これはおかしいではないか?と思ってしまうかも知れませんが、元々、彼女の魂は、貧しい孤独の人を救うという意志を持って生まれてきています。
その意志はとても次元が高く、所謂、一般的に見た人の幸せから見れば、決して豊かな一生でも、幸せそうにも見えないことかも知れません。
最貧国でいつも苦しんでいる人と共に歩む道は平坦ではなかったことでしょう。
しかし、その人の境地からすれば、自分の本来の魂の意志からのことに人生を捧げられているということは、本当に大きな喜びになっているものです。
マザーテレサがもし、嫌々であるいは信仰上の信念のみで、最貧国の孤独な人たちを慰めていたのならば、あのような一生を送ることはできなかったはずです。
そこに喜びがあり、本当にこれが自分の人生のなすべきことだと思えたとき、人の幸せは計り知れないものなのです。
もちろん、お金もあり豊かな生活も幸せではありますが、その人の次元と境地が上がってくると、そういったことはあまり二の次というか、あまり重要でなくなってくるものでもあるのです。
>身近に徳のある人がおられます。
>温厚で優しく、世話好きで、地域の民生委員をされており、
>独居老人や生活保護の人やDVを受けたシングルマザーの人たちのお世話をしています。

この方もおそらくは、豊かさよりも一番に人の幸せや困っている人を救うことを喜びとする境地を持っている方なのではないでしょうか。
もちろん、老後のお金のことや、将来の不安などもあるのも事実なのでしょうけれど、それ以上に今、行っていることに喜びを持って取り組んでいるのではないかと思います。
そういった方には、正のエネルギーはますますに魂の喜びに関わるもので顕現化されてくるものです。
正のエネルギーは必ずしもお金や豊かさといった次元のことで顕現されるとは限らないものなのです。
むしろ、その人の境地が上がってくると、現世レベルの幸せよりも、より魂レベルの幸せの方にシフトされていくことが多いものです。
これが正のエネルギーが単純にお金や豊かさで現れない理由の一つでもあります。
それ以外に考えられるのは、その人がどれだけ正のエネルギーを蓄えても持って生まれた負のエネルギーや家系からくる因業、何かしらの霊的障害、様々に妨害するエネルギーも存在しているものです。
一見、そんなものを持っていないように見える人も実は、様々な視点で見ていくと負のエネルギーは持っているものなのです。
ですから、単純に正のエネルギーを蓄えているから、全てが完璧な状態になるとは限らないのです。
また、天命を果たすために、本人を成長させて、悟らせるために用意されている苦労などは、正のエネルギーがいくら沢山あったとしても回避できないものもあります。
このように様々な要素が組み合わさって、私達を取り巻く現在の状況というものは作られています。
そういったものを鑑みると、単純に正のエネルギー、負のエネルギーというものも一辺倒には解釈できないということがわかると思います。
もちろん、ご質問の中にある方は、老後の不安や問題も抱えていますが、正のエネルギーを蓄え続けています。
ですから、今後、どうなっていくかは、まだわからない部分はあるかと思います。
今、現実的な面で報われていないから、この先もないと言い切れるものでもありません。
もう少し大きな視点で見ていくと、正負のエネルギーの関係がより理解できるかと思います。
以上、回答とさせて頂きます。
天心 拝
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